キリギリスの覚悟

窮屈さから抜けださない、なかなか。

「でも」とか「しょうがない」という類の相談ごとすら聞きながせない。

変わりたいけど、変わらないほうが「楽」だと不幸の渦の中からあえて動かない目の前の人たちの悩みに干渉しないようにはしている。

だけど、気に留める自分の弱さにも気が滅入ってきてしまう。

どんな理不尽さにも耐えぬくのは、ただ周りの目を気にしているから。

他人の身勝手さも、私は優しいからと口にはしないのは嫌われたくない保身。

身勝手さも、理不尽さも、我慢できるのは自分が優しいからだと勘違いしている。

その奥底にある保身をそっと隠して、自分を騙し、騙し、生きていく。

それは、優しさじゃないと全否定はできない。

だけど、自分で、面倒を避けるために苦を選ぶなら、自業自得でしかないんだ。

変われない今が、つまりは、苦しい今がその人たちには大切なんだと思った。

キリギリスになったからといって、堕落していくわけではない。

キリギリスになるにも、覚悟が必要だと私の相談事にのってくれた方がそう答えてくれた。

自分が会いたくもない人に、周りにあわせて時間とお金をつかう。

行きたくないと、心に過っても「No」と口にすることもでない。

自分は変れない、周りが変わればいい。

自分が我慢すればいい、言ったところでどうせわかってくれないから。

何もしないのに、何かが動くわけじゃない。

当たり前のことなのに、まるでシンデレラさながらに、ガラスの靴をもった王子様を待つ人のように見えてくる。

自分から何かすることは勇気が必要で、上手くいかない「かも」しれない。

けれど、何もしないで、その「かも」に怯えていたら何も変わらない。

溜め息をつくばかりの毎日が再放送みたいにやってくるだけなんだと思った。

言い訳はやめて、覚悟を決めて、変われない自分の弱さを見つめよう。と、自分にも言い聞かせた。