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最近、思うことをつらつら

酔っぱらうと人の本音がでるなんて聞く、私はアルコールの手助けで陽気によく笑う。

ほんの少しのお酒で酔っぱらう、とても経済的な身体だ。

つまりは、私は物静かな仮面をかぶっていたのかもしれない。

おもちゃ箱をひっくり返したような明るさはない。

けれど、無理に感情をひっこめることはやめ、マイペースに感情を選択できるようになったと思う。

何より感情の方向性を、周りにあわせることがあまりなくなった。

隣にいる人が機嫌が悪くても、いくら愚痴をこぼしても、それはその本人の問題であって、私にはなんの関係もない。

だから、心にない同情もなぐさめもしない、ただ、肯定も否定もせず、頷くだけ。

するといういことは、自分もそうしてほしいというモールス信号で。

大変だったねとか、何かにつけて同情をしてくる方がいるのだか。

それは、その時の私の役割であり、できることをしてきただけなのだが、と内心思いながら。

その大変さとやらを、私の代わりに任せられるようになった隣人は、まず物事のスタートが「できないよ。」という言葉をいわないとできない人で。

できないの基準は、個人差もあると思う。

だけど、やりもしないのにできないという口癖はやめたほうがいいと私は思う。

できなかったときに、できないと周りに助けを求めればいい。

仕事がいくら山積みであっても、優先順位をつけて1つ、1つ、やり終えていけばいい。

周りの手をかりればいい。

自分「しか」できないとそう思うのであれば、それを重圧と捉えるのは自分勝手というものだ。

そういう決めつけをするから、自分で仕事を増やし、周りの手をかりようとはしないから、その部分がその人しかできない、対応できない物になってしまう。

甘え下手で、責任感が強く、プライドが高く、お姉さん病な人が陥りがちな悪循環。

私がやらなきゃ誰がやるの?

そうやって、自分の居場所を人に頼まれることで確保し、そこに自分が思い描くような褒め言葉がなければ崩れ落ちてしまうプライド。

とても、手間がかかる面倒な構造だ。

選ばれたい、求められたい。

哀しいことに、そういう人はあまり望んだ褒め言葉はもらえない。

無欲である人ほど、不思議と周りの評価が高い。

自分で選び、自分がどこまでできるのかを、過大評価していないからだと思う。

自分に自信もない、だから頼られる人になろう、頼られ器も持ち得ていないのに、それを願う。

自分で自分の首を絞めていくこの構造に、本人は気づくこともない。

もっとダメな自分を愛せばいいのに。

きっそんな自分を認めたときに、その連鎖から抜け出せるから。

 

私も昔は、お姉ちゃん病でした。今ではちゃっかり甘える妹になってしまいましたが

でも、今の自分のほうが好きです。

自分が思うよりも、自分はできた人間じゃない。

だけど、そんな自分でもそのままでいいと笑いながら、愛してくれる人たちがいると気づいてから重りがとても減ったような気がするんです。

開口一番で・・・

愚痴しか話すことがないのかな?

欲求不満なのかな?

というぐらい、開口一番から愚痴をこぼす人がいます。

時々、どしようもなくぼそりとこぼすぐらいなら聞く耳をもてる。

だけど、愚痴が土砂降りの雨のように降り続く人は、正直、会話もしたくありません。

限度を超えて、限界なので一緒にいない努力をしよう。

私は、あなたではなく。

自分のコピーのように心を酌み、共依存してくれる人を見つけてくださいと願うばかりで

欲求不満がすぎるから、もう誰でもいいから異性に抱かれてくださいとやけくそ気味に正直思っています。

承認欲求が強すぎて、誰かに幸せにしてほしい、相手に変わってほしいとほしい、ほしいが全面に出ていて辟易。溜め息。

 

自分自身で幸せを感じ、自分を認め。

自分を好きにならないと、人を好きにはなれない。

欲しがるばかりの人は、一緒にいて疲れます。

 

相手の問題で、私の問題ではないのでどうしょうもできないのですが

一緒にいなくてはならない時間をどうするべきか、私はそんなに悲観するような嫌なこともないので

建築的に、じゃぁ、どうすればいいのか?を相手に問いかけて泣かせてしまうそうでこわいです。

意見の違いを否定と捉え、同調を求める人は本当に困る。

気にしなきゃいいんだよね・・・の限度をこえているんだと冷静にそう思います。

 

いくつになっても

どんなに歳をとっても、誰かが誕生日をお祝いしてくれる。

「おめでとう」その一言に、じんわりと広がる嬉しさ。

ただ。自分が在りたいように素直に生きていきたいとそう思うんです。

始める前にあきらめたり、逃げても限られた時間をただ過ぎていくだけだから。

あきらめと、寂しさをこぼしながら、相手にばかり求める人に

どうして、自分で自分を大切にしないの?と、なんだか苛立ったときもあった。

けれど、他人事に一生懸命になっても、目の前の人が欲しいのは頷きと、表面的な優しさで。

じゃぁ、こうすればいいよという前向きさなんて、欠片も求めてはいないということ。

繰り返し、刷り込む、自分なんてという呪文。

そう思って何になるんだろう?と私はそう思う。

だから、私は自分なんかなんて思わない。

そう思わないように努力もする。

それは周りに、自分がしたいようにすればいいよ、と、背中をおしてくれる人たちがいるおかげで。

そこからは、自分自身で決め、動き、躓きながらも進んでいく。

覚悟と責任。

もっと欲張りに、素直に色んなことを吸収し、学んでいきたい。

自分自身のことなら、そう思えるのに、私は苦手なことでは言い訳が多い。

 

今だって「とられたくないでしょ?」と言われた言葉に言い訳ばかりがうかんでくる。

まず彼は「モノ」ではないし。

彼が幸せならそれでいい、何か特別が欲しいと欲張りになれない。

過去を言い訳にしている、臆病に未来を予想するのは勿体無い。

とか、恋愛スイッチの入れ方がわからないって、わからないふりをしているだけでしょう。

なんて、何で私の周りは的確な分析をしてくれる人ばかりなんだろう。

私は彼とお互いを大切にしていきましょう。と、約束しあえる人になりたいのか。

今はよくわからない。

ただ、もう少し彼を知りたいという気持ちがここにはあって。

一晩中、彼と話がしてみたい。

そんな願いごとを胸にしまっておくか、伝えるかできっと明日は変わるんだろうな。

変われない、変わりたい、変われなくない。

大好きな曲の歌詞を何度も唱える、自分の気持ちを確認するみたいに

Aimer

Aimerのベストアルバム。

 開封し、聴き入る。

彼女の声を知り、曲を歌うようになってから何年経つんだろう。

聴くたびに、新たな発見がある。

あぁ、魅力が尽きないそれがAimer。

綺麗で、切なくて、優しくて、でもおもしろい声をしている。と、なんだか改めてそう感じた。

今の自分には、まだできない技術がそこかしこにある、だけど一番足りないのは自分の声で歌うということなんじゃないのかな?と最近、すごくそう思う。

隙のない一音もズレることもない完璧な歌声ではなくても、魅力的な人はいる。

飾らず伝えることに臆さない、コレがすごく簡単なようで難しい。

変な声だって、恐々だしていたら音程はとれないし、ただの表面的な歌になってしまう。

表面的な部分が上手くても、きっとそれだけの歌になってしまう。

自分の声をよく聞き、一音を大切にすることで、できなかったことができるときがある。

もっとよく聞くために、どこに響かせればいいんだろう?

音がシャープするのはきっと上手く歌わなきゃと、喉に力が入っているから。

スッと音が響くときの感覚を何度も、何度も、繰り返し練習する。

 

そんな合間に、同じぐらい大好きな洋服のことを考える。

今年のデザインがあまりにも甘すぎてあまり欲しい形がないのが悩みで。

まずサイズが大きい、丈が長い。

体型を隠すよりだすことによって、現実が見えて体型が維持できると思っている私にとっては困った事態。

着古した洋服を買い替えようと思いながら、思い切って買いました、メンズのカーディガンを。

飾り気がなく、でも形をとても大切にするデザインがとても好き。

これをわかってくれる方と友達になり、バカみたいに語りあいたい願望、希望。

身長が小さいから、縦に長く見せる丈感とか、幅とか色々、あるんですよ。

専門用語は音楽と一緒であまりよくわかりませんが、研究分析した結果が今の形で。

その形を音でもできるようになります。と、書き出すことによって、逃げ場をなくす。

早く次のスタジオの日にならないかな。

歌い、話し、それだけですごく幸せな気持ちになれるから。

幸せ

幸せにしてもらうんじゃなくて、幸せになる。

それは自分自身の問題。

シンデレラのような劇的な瞬間を待ちわびて、時を費やしてはいけない。

「でも」「だって」と口にして、「そんなことないよ」というなぐさめを期待して

私は大丈夫だって、価値を他人に委ねて。

何もせずに欲しがる人に、私は魅力を感じない。

そのままでいい、そのままでいいのに。

足りない物ばかりを数えては、溜め息を重ねて自分を不幸にしていく。

幸せになる努力をする手前で「私なんて」と口にする。

頑張りを人に知って欲しくて、自分が思うような形が欲しくて、欲しくて・・。

思うようにはいかなくて、私はここに必要がないんだって、何度、口にされても、私は何も言えないし、言うべきでもない。

私はあなたではないのだから。

それでも繰り返す、「私はここに必要ないんだ」と。

周りの欝々としたそんな気持ちは、私だってよくわかる。

だけど、私は私でしかない。代えのきかない存在だと、自分自身で思わなければ。

変われないなんじゃない、変わりたくないんだって。

選ばれるための自分をつくるんじゃなくて、自分がどうなりたいかは自分で決める。

それが、自分らしさの素なんだって、そう思うから。

周りに同調できない自分が欠陥品みたいに、思いそうになった。

だけど、私はその日の嫌なことを数えるよりも、嬉しかったことを1つでいい思い出して眠りにつきたい。

キリギリスの覚悟

窮屈さから抜けださない、なかなか。

「でも」とか「しょうがない」という類の相談ごとすら聞きながせない。

変わりたいけど、変わらないほうが「楽」だと不幸の渦の中からあえて動かない目の前の人たちの悩みに干渉しないようにはしている。

だけど、気に留める自分の弱さにも気が滅入ってきてしまう。

どんな理不尽さにも耐えぬくのは、ただ周りの目を気にしているから。

他人の身勝手さも、私は優しいからと口にはしないのは嫌われたくない保身。

身勝手さも、理不尽さも、我慢できるのは自分が優しいからだと勘違いしている。

その奥底にある保身をそっと隠して、自分を騙し、騙し、生きていく。

それは、優しさじゃないと全否定はできない。

だけど、自分で、面倒を避けるために苦を選ぶなら、自業自得でしかないんだ。

変われない今が、つまりは、苦しい今がその人たちには大切なんだと思った。

キリギリスになったからといって、堕落していくわけではない。

キリギリスになるにも、覚悟が必要だと私の相談事にのってくれた方がそう答えてくれた。

自分が会いたくもない人に、周りにあわせて時間とお金をつかう。

行きたくないと、心に過っても「No」と口にすることもでない。

自分は変れない、周りが変わればいい。

自分が我慢すればいい、言ったところでどうせわかってくれないから。

何もしないのに、何かが動くわけじゃない。

当たり前のことなのに、まるでシンデレラさながらに、ガラスの靴をもった王子様を待つ人のように見えてくる。

自分から何かすることは勇気が必要で、上手くいかない「かも」しれない。

けれど、何もしないで、その「かも」に怯えていたら何も変わらない。

溜め息をつくばかりの毎日が再放送みたいにやってくるだけなんだと思った。

言い訳はやめて、覚悟を決めて、変われない自分の弱さを見つめよう。と、自分にも言い聞かせた。

助骨が痛む

色々なことがある、退屈はしない日々。

不安とか不甲斐なさとか、くっついてはくるけれど。

人を変えようとモヤモヤするより、自分が変わればいいとそう思う。

でも、時々、誰かに弱音をポロリとこぼしたくなる。

弱さを邪魔にせずに、今、できることを精一杯。

 

今は、ベッドから抜け出すことに全力投球。

冬の朝のお決まりの戦い。